第13回_エンディングライフファミリーアドバイザー_妻を亡くした後から退職まで
おはようございます。今回は「妻を亡くした後」について解説していきます。My's Life Japanをよりよく理解して頂くために発信しております。
ホームページ開設が9月になりますので、それまでは、このブログをメインに発信させていただきます。
大切なご家族を亡くされたご遺族の心情は計り知れません。また、周りにいる方々が寄り添ってあげる事が大事です。気を使いすぎて声すらかけない、どんどん痩せてきているのに声もかけないのは「見て見ぬふりであり、本人を苦しめる行為」です。理解をしてあげてください。
【結論】
周りの苦しんでいる方に対し手を差し伸べる事が大事です。その方はSOSを出しています。気づいて声をかけてあげる事で本人も救われます。誰にも頼ることが出来ない方がそばに居る事を忘れず、寄り添ってあげてください。
【妻が亡くなり霊安室へ】
妻が亡くなったのは2020年12月5日(土)午前9時でした。それからすぐに葬儀社に電話し、妻を病院まで引き取りに来て頂かないといけません。泣きながら「小さなお葬式」に電話しました。妻がいた部屋もすぐに荷物を片付けないといけません。これも精神的に苦痛でした。病院は次の患者さんをいれる事が求められるので仕方がないのですが、今まで妻が生きていたのにすぐに片付けるのは辛い事です。
【霊安室から葬祭会場へ】
霊安室は病院の地下にありました。そこではひとりひとり妻に対し線香をあげ、合掌してお見送りをします。わたしはこの瞬間から「喪主」の立場で皆様と接する事になります。病院の関係者も私がずっと泣いている姿を見て、涙されていたのを思いだします。
病院を後にし、葬祭場である「さがみ典礼」に向かいます。そこでは、通夜・告別式に関する打合せを行います。丁寧に説明してくださいました。また、わたしの妻が大好きだった「プーさん」を祭壇や棺に入れて飾りたい旨もお話させて頂きました。
斎場では実際に見せて頂きどのような流れで行われるかを説明受けます。
【いったん自宅に戻る、翌日斎場へ】
一旦自宅に戻ります。すぐに準備をしなければなりません。妻の知人にすべて電話しました。妻は几帳面で手帳に住所連絡先が書かれていました。一番仲の良かった方と中々連絡が取れずにいましたが、連絡が取れ説明すると電話越しに号泣されていました。皆さん本当に妻の死にを悼んでおり、妻の人柄の良さを褒めて下さっていました。ありがとうございます。
妻の娘と元旦那は市内のホテルに宿泊。通夜の日に合流する事になりました。会社には葬儀内容を連絡。上司からは心温まる励ましの言葉を頂戴しました。ありがとうございます。
プーさんや礼服準備し、ひとり斎場控室に向かいます。
【斎場控室、翌日通夜】
12月6日(日)15時頃斎場控室に行きました。そこは妻を安置できるようになっています。わたしはそこでずっと泣いていました。涙が全く止まりませんでした。18時頃、妻が運ばれてきました。体は冷たく色が白いです。着替えをして頂き、丁寧な対応をして頂きました。
妻と2人の時間をしばし過ごします。そこでは、妻に対し今までの人生の中で迷惑かけたこと、喧嘩した事、つまずいたこと、一緒に歩いたこと、元気になったら色々な事をしようと言っていた約束、など様々な事を想いだしながら後悔と無念でずっと泣いていました。
20年以上あっていなかった母に来て頂きました。夜10時過ぎに妻の友人が直接来られ、妻を見て涙をされていました。この方は妻によくして頂き、色々と食事に連れて行っていただいた方です。妻は12月4日に電話を入れているが電話に出られなかった事でお話が出来なかった事を後悔されておりました。
ひとりの孤独はとても辛く、亡くなる日の12月3日から食事も水分も取れない妻を見ていたため、この時から食事が喉を通らなくなり始めました。わたしはこのまま妻と2人で最後の夜を共にします。
【通夜・告別式】
12月7日(月)通夜が行われます。それに先立ち納棺が行われます。専門の方に来て頂いて丁寧な対応をして頂きました。棺に大好きだったプーさんを沢山入れてあげ寂しくないようにしてあげました。プーさんに囲まれた棺になりました。
17時から通夜が始まりました。コロナ過で参列は総勢5名です。寂しい事もありますが仕方がありません。通夜で喪主挨拶をするのですが、涙で話になりません。挨拶も出来ない状況でした。
18時から一般焼香の時間、わたしひとりで対応する事になります。妻の友人、わたしの会社の同僚が参列に来られました。わたしから妻が肺腺癌で亡くなった経緯を説明し、妻を愛していたこともお話させて頂きました。当日焼香頂きました皆様本当にありがとうございます。また、様々な方から弔電を頂きました。ここに感謝申し上げます。
12月8日(火)告別式です。出棺は9時火葬場に向かいます。ここで妻の最後の姿を見ることなり、ずっと泣いていました。とにかく涙が止まりませんでした。火葬炉に入った瞬間にまた悲しみがこみ上げ、泣き続けます。火葬している間は控室で待っていながら妻の想い出は話です。分骨を希望していたので、妻の娘に持たせてあげるようにしました。
13時より告別式です。喪主挨拶では、やはり泣き崩れ挨拶がきちんとできませんでした。告別式が終わり、皆様をお見送りして色々片付け等を終わらせてから、妻の遺骨・仮位牌・遺影と共に自宅に戻ります。自宅では仮で祭壇を設置し、妻も遺影を見ながらまた泣いてます。
【妻の遺品整理から職場復帰】
翌日から妻の手続きをすべて一人で行う事になります。妻に関するすべての連絡を行っていきました。心の中では妻はまだいるのになぜ?と思いながらもやらざる得ない状況に追い込まれています。
一番遺品整理で辛いのは妻が使っていた物の処分です。住んでいるのが社宅であり、会社規定では独身になったら出て行かないといけません。会社の温情でしばらく引越さなくてよいことになりましたが、片づけをしなければなりませんでした。
涙を流しながらやむなく処分する。この気持ちはご遺族でないと分かりません。胸が引き裂かれるおもいです。ひとり孤独の空間で寂しく整理を行う事になります。この時の経験から「エンディングライフファミリーアドバイザー」では支援を考えています。
私が妻を亡くし心を痛めている時、唯一の支えが妻の友人で群馬県にいるMさんでした。Mさんだけは常に気にかけて頂き、ショートメールをくださったり、妻の月命日にお供え物送って頂いたりした方です。本当にありがとうございます。
わたしは心が折れそうになり、県の相談窓口に電話を掛けましたが何度かけても繋がりませんでした。他の相談に電話しても繋がりませんでした。この時初めて人生の虚しさを感じました。そのくらい心が折れていましたが、誰にも頼れず、寄り添ってももらえず、精神的に参っていきました。
この体験が「エンディングライフファミリーアドバイザー」でオンラインサロンを行う事を決めたきっかけになります。
【職場復帰後、大きな地震、退職を決意するまで】
12月21日より職場復帰をさせていたきました。周りの皆さんは妻を亡くし事はわかっていますが、親身になって寄り添ってくれるのはごくわずか。あまりにも悲しいです。当時経営戦略部販売管理課と言う部署にいた私は妻を亡くす前の仕事と亡くした後では全く同じ仕事が出来なくなっている事に気づかされます。パフォーマンスが下がっていたことにやるせなさと遺族特有の"怒り"が出やすくなっていました。
周りからは見た目はどんどん痩せてきてるが、仕事は普通に出来るでしょ?の感覚でしかないと思いますが、大切な家族、配偶者を亡くした私にとっては、今を亡くしたのと同じなのです。
2月13日に大きな地震がありました。ここで退職が決定的になります。
地震の被害は大きく、仏壇、位牌、遺影、が壊れてしまいました。また、大きな食器棚は全損、ダイニングテーブルも全損し廃棄しました。勿論片付けもたった一人です。仏壇、位牌、遺影は修理に出す状況になり、何度も何度も泣きました。遺影が割れたのは亡くなった妻が私を守ってくれたからです。妻の遺影の横にはガラスの大きな花瓶があり、わたしの頭上にあったのでその横にあった遺影が割れたのでした。亡くなっても守ってくれた妻、命を助けられたことで、助けられたことは何か意味があると思うようになります。
この片付けもたった一人であり、この経験から「エンディングライフファミリーアドバイザー」ではサポートを組み入れています。
心の相談も出来ず、頼る事も出来ず、寄り添う事も出来ない、仕事のパフォーマンスが下がる、この事が退職する決め手となりました。
3月26日に上司に退職願を正式に提出しました。その間誰にも相談はしませんでした。すでに体重も65キロから50キロまで減少していました。引継ぎをきちんと行い、最終勤務日は4月16日(金)、有休を使用し4月30日付けで退職しました。
【まとめ】
ご遺族は本当に心から苦しんでいます。今私は会社を経営していますが、今でも涙を流します。非情で冷たい人にはなりたくありませんでした。だから会社を辞め、自分で会社を立ち上げたのです。
My's Life Japan 株式会社はまだ出来たばかりの法人です。佐々木良樹の会社設立に至る背景をお話させて頂きました。すべて実体験をもとにビジネスをしています。
どうぞお声がけください。
会社TEL:028-611-3716(土日祝日休)
mobile:090-4538-0545
営業時間:9時~17時
ご希望の方にはパンフレット送付します。
※2021年8月13日~16日は初盆のためお休みいたします。