第12回_エンディングライフファミリーアドバイザー_最愛の妻を亡くす
今回は「エンディングライフファミリーアドバイザー」として活動する事になった経緯について解説していきます。My's Life Japanでは定期的に発信してまいります。
(注意)今回は妻の病気に関する事が時系列で書かれていますので、嫌な方は途中でやめて頂いてよいです。そのほかの方は最後まで読んでください。
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【結論】
愛する方を亡くしたご遺族の心の痛み、悲しみが分からない人はとても不幸であり、同じことが身の回りに起きた時に初めて相手の気持ちを知ることになる。それまで知らないのは本当に残念です。
【妻の病状】
わたしには、25年連れ添った妻がおりました。美知子と言います。美知子は2020年12月5日肺腺癌にて亡くなりました。入院してわずか18日間の出来事でした。
ここからは時系列的に書かせて頂きます。
【時系列】
2020年9月26日(土)妻が頭が痛い。この時より言うようになり、横になる事が多くなりました。市販薬を購入し飲んでいたが効き目が全く見られなかった。
【2020年10月】
10月2日(金)自ら市内の脳神経外科病院に行き診察を受ける。MRI撮影を行うが「問題なし」の判断。
10月3日(土)体調が少し良くなり、2人南ヶ丘牧場までドライブ。帰りに体調不良になり買い物をあきらめ直ぐに家に戻る。
10月4日(日)一日中頭痛から寝込んでおりました。
10月10日(土)一日中寝込んでいたが寝ているのではなくただ横になっているだけ。痛みから段々眠れなくなる。
10月11日(月)体調が依然としてよくない。
10月16日(金)私が総合病院に電話し病状を説明すると「緑内障かも」と言われる。
10月17日(土)総合病院に連れていき、眼科を受診、緑内障ではなかったと言われ少し安心して家に戻る。※緑内障と言われたのは右目から涙が止まらなくなっていたため。
10月18日(日)この日も体調不良で寝込む。
10月22日(木)テレワークにより家にいたため、お昼近くの飲食店からお弁当を買ってきたが、ほとんど食べられず、本当に可哀そうな状況。
10月24日(土)妻から薬を買ってきてと言われ、ロキソニンを探し買って帰る。飲んでみるが効き目は無。夜は少し寝られたようです。
10月25日(日)体調は少し戻るが目が痛いと言い始める
10月31日(土)妻を総合病院に連れて行く。眼科を受けた後神経内科を受診し薬を処方される
【2020年11月】
11月1日(日)処方された薬(頓服含む)を飲むが一向に痛みがおさまらない。
11月2日(月)一日中頭が痛い、夜も眠れない状態がひどくなる
11月3日(火)日に日に悪くなっていく。
11月5日(木)本日妻の誕生日であるため、前から有休を入れていたが病院に連れていく。神経内科で「蓄膿症」と言われる。妻にとって半日以上病院はとても辛い
11月7日(土)妻は一日中具合が悪く横になっている。何も出来ない状況。わたしが買い物して帰る。
11月8日(日)本日も体調が良くない
11月9日(月)自身の健康のために行っていたウォーキングをこの日から止める。妻を見守るため。
11月14日(土)妻を病院に連れて行く。頭痛は全くよくならない。担当の先生から「頭が痛いのは精神的なもの」と言われ、妻が帰ってきてから涙を流していた。そばでずっと見ていた私は妻がかわいそうでなりません。
11月15日(日)ずっと頭が痛い!と言っている。見ていて涙が出てきます。
11月16日(月)今日も一日中頭が痛いと言っている。どんどん悪くなっているようにしか思えない。
11月17日(火)総合病院に直接直訴の電話。担当の先生を変えて、学会の先生に診てもらうように変更をお願いする。
11月18日(水)妻は朝歯を磨いていて、途中歯磨きを止めないと呼吸が苦しい状態になる。歩く事も辛い状況。山本先生に約40分くらいかけて丁寧に見て頂いた。眼球吐出もあり即入院となる。
【入院してから】
11月21日(土)耳鼻咽喉科の先生から説明を受ける。手術の内容についてである。リンパの手術。25日予定。
11月25日(水)リンパ除去手術を終える。毎日携帯メールでやり取りする。
11月27日(金)このを境に携帯メールが短文になり、メールの言葉も変、目が見えにくい。
11月28日(土)呼吸器内科の先生から病院に呼ばれる。久々に妻に会うが別人なくらい痩せてしまい、気力がなくなっていた。先生から説明を受ける。説明は「PET検査を行いました。結果肺がんでステージ4、このままだと余命2か月です」と言われ愕然とし、泣き崩れました。
11月29日(日)アイロンをかけた着替えをもっていく。一緒に妻の大好きだったぷーさん「マーという名前」を持って行ってあげた。この日より私は妻に毎日メールを送りました。文末に「愛してる」の言葉を添えて。
11月30日(月)病院から付き添いの依頼が入る。12月1日からとなる。理由はせん妄が始まって呼吸器を外してしまうためだ。
【2020年12月】
12月1日(火)午後から病院に向かう。部屋を開けると看護師さんが妻に食事をあげていましたが、わたしの顔を見るなり涙を流していました。その姿を見て私も可哀そうで泣いてしまいました。夜はずっと激痛から本人が「助けて」と言ってきました。助けてあげたい気持ちばかり先行します。
12月2日(水)かなりがんが進んでいる様子です。目は放射線治療を行い、眼球吐出を抑えるためです。眼球の裏側にがんが転移し、副鼻腔の中にもがんが転移しています。すでに医療用麻薬を使用していますが痛みがあります。
12月3日(木)明け方にパルスオキシメーターの数値が「60台」まで下がる。非常に危険な状態になり、妻の娘、元の旦那に電話し、病状説明し急遽来て頂きました。当日18時から先生より3人に対し説明がありました。先生は「がんの遺伝子検査結果が分かりました。しかしがんの進行が早く、体力が無さすぎで手の施しようがありません。いつ亡くなってもおかしくありません」と言われ愕然。
夜中に何度も激しい咳、呼吸の苦しさを訴える。見ていて本当に辛い。少しの時間せん妄状態から抜けている時妻にこう言いました「生きられるのはあとわずかしかない。助けられなくてごめんね」と。妻はこう言いました「もっと生きたかった」その言葉を聞いて涙が止まりませんでした。
12月4日(金)妻が入院しこの日は親子で付き添いをして頂きました。わたしは3日間全く眠っていなかったので、自宅に戻り眠りました。15時頃娘さんから電話がきて、甘いものが食べたいと言っていますので買ってきてもらえませんか?と言われたので承諾。そのあと妻と電話を代わり妻は「ごめんね、ごめんね」と言ってきました。この言葉が妻と交わした最後の言葉になりました。
12月5日(土)妻が入院して18日目、朝8:31娘さんから電話が入る。すぐに病院に来てくださいと言われすぐに向かう。病室に到着すると、妻は危篤状態となっており、呼吸器内科の先生が「今から確認をします」と言って目に光をあて、聴診器をあて確認。午前9時逝去しました。と言われその場で泣き崩れました。助けられなかったことに対する無念と後悔の念にかられました。
【これを読んで頂いた皆様へ】
亡くなった妻の事を隠さずお伝えさせて頂きました。このブログを書きながらも泣いています。家族を大切にしてください。また、亡くなったご遺族の気持ちに寄り添ってください。配偶者が亡くなりなんと声をかけてよいものか?と思う方もいるかもしれませんが、寄り添う事が大事です。全く接しないのはかえって逆効果です。
わたしのように子供もおらず、ひとり孤独の場合、とても耐えられませんでした。だからこそ私は自分で起業し、「エンディングライフファミリーアドバイザー」も活動する決意を固めたのです。
同じ境遇に立たれたかたの見方になりたい。寄り添っていきたい。その考え方から弊社の"人生を豊かに生きる"のサブタイトルに繋がりました。My's Life Japanは大切な方を亡くされたご遺族に寄り添えるパートナーとして存在します。
【まとめ】
すごく長くなりましたが、妻の無念さ、もっと生きたかったの言葉の重み、そして残されたご遺族の悲しみ、すべてに寄り添う事が出来る社会を作っていく会社でございます。
もっともっと広めたい、共感される方に共有したいと思い書かせて頂きました。